能動的な技術と受動的な技術(なぜか写真論)

前にもどこかで書いたことがあるような気はするけど、写真を撮るのが下手だ。
幸い最近はデジカメ全盛の時代なので、そのことが瞬間的に分かるが、昔は現像するまでの時間がかなりあって、いつも非常に大きな失望を感じていたものである。

先日、アラーキー(荒木経惟)のインタビューをテレビで見ていたら、もう最近は撮る写真撮る写真イケてる、みたいなことを言っていた。見ていると、もう考える時間なんかなく、構えて撮る、構えて撮るという感じなのに、撮れた写真はどれもある意味、奇跡的なところがある。私はこういう写真の不思議さというか魅力に憧れていて、だからこそ自分が撮った写真を見るといつも絶望してしまうのである。

ところで知人の写真家に宮島さんという人がいて、私はとても尊敬している。
この人とは、一緒に数日間かけて伊勢まで路線バスに乗って旅行するとか、庭をテーマに庭じゃない場所で写真を撮るとか、そういう訳の分からない仕事をさせていただいてきた。
それにしても、写真の不思議さは、カメラマンが作品を撮る現場のなかにあると言っても嘘ではない。写真の美しさとか面白さ自体、わりと言葉で説明できたり、頭で理解できたりする類のものであることが少なくない。それなのに、それを撮っているカメラマンの動きは、けっこう不可解なのだ。
仕事柄、カメラマンの動きは結構見てきたが、根本的なところで、どうも自分にはできないと感じることが多かった。一体、それは何なのか?

そんなことをあれこれ考えているうちに、アーティストには大きく分けて2つの技術と才能があると思うようになった。
能動性のなかにある技術(才能)と受動性のなかにある技術(才能)。
何かを意図してつくる表現という行為は、能動性のなかに、その本質を見いだすことが多いだろう。だが、実際のアーティストという人種は驚くほど受動的な人々である。
そして、向こうからやってくるものを、研ぎ澄まされた感覚とスピードと的確な反応でもっていかに受け入れるか……、それは簡単に真似できるものではなかったりする。私のような頭でっかちの能動バカには、とりわけ難しい課題なのだ。
たぶん、2つの技術は両方あってはじめてバランスを見出すようなものなのだろう。ただ、写真というのはとりわけこの受動性(の技術)が大切な気がする。

そんなわけで、宮島氏のウェブサイト製作を手伝えたのは、実に素敵な体験だった。
http://www.geocities.jp/dwxmj960/
タイトルは最終的に「Bath Birthday」となった。
実はこれ、私の間違いから生まれたタイトルでもある。本来は「Bath Birth」となるはずだった。宮島氏から「間違いですがこのほうが面白いので、これでいきます」と言われ、私は慌てた。
このエピソードのなかに、受動的な技術の神髄があるとは、もちろん言えない。
音楽においても、受動的な技術が重要なのは言うまでもないが、正直いって私にはそのことを語る自信がまったくない……。


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