斎藤美奈子『文章読本さん江』
(2002年2月、筑摩書房、1700円)
もう一つの文章読本?
やっと出た、ついに出た、ようやく出た。『妊娠小説』につぐ本格的な文芸評論!
というわけで、前回に引き続き評者がうかれているだけの書評になりそうでコワイ。なんといったって僕は斎藤氏の大ファンである。集めモノの時事的な評論もいいし『紅一点論』『モダンガール論』もそれなりに面白かったが、待ってたのはやっぱこれであった。
さて今回斎藤氏の攻撃の的になっているのは、小説ではなく「文章読本」である(「妊娠小説」同様、これもオトコの独壇場である)。僕はそういう種類の本 をちっとも読んだことがないのだが、それはそれ。悪口は知らない人の悪口でも面白い、というわけでもないのだろうが、十二分に楽しめる。
そんなわけで、「文章読本」ていうヘンテコなジャンルがあるよね、というところからこの評論は始まる。「文章読本」というのは偉い作家や学者の先生たち が、素人向けに「文章の書き方」を教えてくださる、というありがたい本であるらしい(ただし実用性はあまりない)。僕は谷崎潤一郎がこの分野の先駆者であ ることすら知らなかったのだが、確かに書店にはこのテの本がごろごろしているのを見たことがある。
んでもってこの「文章読本」てやつはどれもなんか胡散臭いし、そもそもジャンル自体がヘンだぞ、という話がこの本の前半戦。蒼々たる顔ぶれの筆者たちを おちょくり、からかう斎藤節はいつもの通りなのだが、より面白いのは後半戦である。学校教育における文章教育(作文、かつての綴り方)の変遷と印刷メディ アとの関連を辿りながら、どうやら「文章読本」のヘンテコ具合はここに根っこがあるらしい、と進んでいくのだが、このあたりの目のつけどころと分析の鋭さ には目を見張るものがある。いやあ、素晴らしい。
しかしながら、斎藤氏の本を読んでいつも思うのは、何のことはない、「いやあ、文章が上手いなあ」だったりするから、これはちょっと問題である。なんと いったって、「文芸批評的、私小説的」として「文章読本」を批判するこの本を読んで、こんな個人崇拝じみたことを書いていてよいのかと思うのであるが、そ こは大目に見てほしい。引用文がたくさんあって、既成の「文章読本」への批判があって、文章の書き方に対する意見が散りばめられている、という点では、こ れだって「文章読本」の一種と言えないこともないのである。
文章についての斎藤氏の基本的な考え方を要約すると、「文は人なり」を否定し、「文章はファッションである」という一言につきる。これはごく平凡な結論 であって、この本がウリとするところは決してそこじゃないのだが、その通りというほかない。ついでに、文章というファッションのスペシャリストたる斎藤氏 の自負のあらわれでもあろう、という点でこれはやっぱ「文章読本」的なのである(別に悪口ではない)。
「あとがき」でも本人が触れている通り「もう降りた」「無責任な野次馬の立場で」というのが、彼女の一貫したスタンスである。それで「上手な文章などには 何の興味も未練もなく」などとすらっと書くわけであるが、先ほども書いた通り、斎藤氏の文章はサイコーに上手である。ファッションでしかない文章をファッ ションとして冷静に扱っているから上手なんだとも言えるわけで、話は複雑である。
ところが僕のような助平なファンは、それでは納得しなかったりする。「斎藤美奈子の書いたもっと生々しい文章が読みたいなあ」、そんな阿呆なことを考え たりするわけである。とはいえこれは明らかに間違った期待であり、斎藤氏がそんなものを書くのは、彼女が呆けたときか、あるいは彼女を混乱させ、驚愕させ るような問題作が登場したときであろう。本当は、こっちのほうの登場を期待するのが筋というものである。