ハミルトン『人間だって空を飛べる』 バートランド『エルヴィスが社会を動かした』

ヴァージニア・ハミルトン『人間だって空を飛べる』
(金関寿夫訳、2002年6月、福音館文庫、700円)

マイケル・T・バートランド『エルヴィスが社会を動かした--ロック・人種・公民権』
(前田絢子 訳、2002年8月、青土社、2800円)

抑圧と反抗をめぐるちょっと複雑な話

まずは全然テーマと関係のない話から。
福音館文庫の創刊が嬉しい。落ち着いた装幀や編集は読者として大人も視野に入れた感じだ。児童文学にかぎらず、子ども向けの本というのは宝の山だ。無駄 なものがそぎ落とされたというか、読書力が衰え、おまけに忙しくて時間のない現代人にはぴったりのものも多い。僕はときどき図書館の児童室へ行くのだが、 そこにある本を片っ端から読んだら、非常に面白いのではないかと思ったりする。まあこれは忙しい現代人というより、暇人の発想であるが。
それでどうしてもこのシリーズから一冊買いたくて選んだのがこれ。アフリカ系アメリカ人の口から口へ伝わる民話を集めた本だ。

前にディズニーのアニメ作品『南部の唄』についてちょっと触れたが、これが問題になったのは、あからさまな黒人差別というより(むしろ内容は「好意的」 とさえいえる)、黒人の描き方におけるステレオタイプだったのではないかと思う。南部において白人が黒人に対して支配的な態度をとっていたのは「事実」な のだから、むしろそれを描かないことのほうが問題なのだから。だからは問題は、黒いリーマスおじさんを白い作り手たちが勝手に「理想化」して描いたことに あった。
子どもたちの人気者、話し上手のリーマスおじさん。
この本のなかには、彼の口から直接聞いたらさぞ愉快であろう(そしてディズニーならそれを喜んでアニメ化したくなるような)、お話でいっぱいだ。動物を 擬人化したドタバタ劇や、辛い境遇でも忘れないユーモア、そしてほんのちょっと感じられる音楽性やリズム、そして自由への憧れ(人間だって空を飛べる!) などなど……。
さて、これらはみなある意味で僕たちが知っているお馴染みの黒人像ではある。いやもしかしたら、そのような存在であってほしいと願っているということか もしれない。そういう意味ではこれは先のディズニー・アニメのネタ本であって、リーマスおじさんの「理想化」と紙一重だ。
訳者のあとがきなんかにもそれは見てとれる。「私はこの本を読んでいて、思わずアメリカのジャズを連想してしまいました。……ジャズの持つ楽しい、軽快なリズムの底には、いつもあの黒人ブルースの、悲しいむせび泣きの声が、はっきりと聞き取れるのです」
間違いだと言うつもりはないけれど、本当にこれでいいんだろうか?

そんなわけで、ここからは「大人の本」の話。
差別というものを仔細に観察すれば、必ずそこには単純化できない複雑な構造があるものだ。白人=抑圧者、黒人=被抑圧者、というような図式ではどうしても抜け落ちてしまうものがある。
『エルヴィスが社会を動かした』が焦点を当てたのはまさにそういう存在としてのエルヴィス・プレスリー、つまり南部の白人労働者階級(いわば白人のなかの 被抑圧者。文化的、階級的には黒人に近い場所にいるが、時にそれは大きな憎悪となって黒人に向かった)である。公民権運動によって人種隔離の撤廃が始まる 前の南部にあった複雑な人種状況に目を向けることで、ロックンロール誕生の意義を解き明かそうというのがこの本の趣旨である。
したがってこの本によればロックンロールは、変わりつつあった白人労働者階級の若者たちの人種観を反映したものであり、その後の人種統合を先取りするとともに文化的な面で促進する大きな役割を果たした、ということになる。
ロックンロールは音楽産業によって作られたものだとか、白人中産階級が黒人文化を物真似し一方的な憧れを託したものにすぎないとか、あるいはどの時代に も見られる若者の反抗的な態度のひとつにすぎないとか、さまざまな見方に一つ一つ批判を加え反証していく努力が涙ぐましく、そしてこの本は大変長い。
エルヴィスがゴスペルやR&Bといった音楽にどのような尊敬の念を抱いていたか、あるいは逆に当時の上層階級がエルヴィスの音楽にどう反応したか。全体はやや冗長であるが、細かいエピソードの積み重ねが非常に面白いので、この分野に興味のある向きにはお勧めだ。

さて今回もうまく話がまとまりそうにないので、さらに話を飛躍させることにしよう。
このあいだ深夜にテレビを見ていたら、奇妙なライブを放送していた。それが、エリザベス二世の在位五〇年(だったかな?)を祝うバッキンガム宮殿での記念ライブだと理解するまでに、結構時間がかかった。
登場したのは、エリック・クラプトン、オジー・オズボーン、ジョー・コッカー、ポール・マッカートニー……などなど毎度お馴染みの年寄りロック・ミュー ジシャンばかり。「アメリカからの代表」ということで「本当はエルヴィスがよかったんだけど(司会)」ということで登場したのはブライアン・ウイルソン。
女王や王子たちを前に、まるでかつての宮廷お抱えの音楽家のようにうやうやしくロックが演奏されるという不思議な光景を見ながら思ったのは、「みんな成り上がったんだなあ」という非常に身も蓋もない感想だった。
そこに集まって大騒ぎをしている観客、そして優雅に深夜一人でテレビなんかを見ている僕も含めてである。今われわれは女王さま王子さまたちと同じものを 楽しんでいるわけだ。労働者階級の音楽は宮廷音楽になり、人々はみんなそれを平等に楽しみました。めでたしめでたし、というわけである。
人は成り上がって豊かになったとき、世界全体がよくなったような錯覚を抱くものだが、もちろんそれは勘違いである。この場合成り上がったのはアメリカや イギリスの労働者(もちろん黒人も含めて)であり、日本人でもあるが、なぜそんなことが可能だったかといえば、ここから先はまああの悪名高い「一〇〇人の 村」でも有名なお話だ。

昔話にせよロックンロールにせよ、かつての「純粋形態」を探し懐かしむことはできる。けれどももっと大事なのは、これからどうしようという話だ。ちょっ と生真面目な言い方をすれば、どんな音楽を奏で、どんな物語を紡いでいくべきなのか。もちろん答えが簡単にでるわけもないのだけれど、少なくとも「成り上 がってしまった」僕たちとしては、抑圧されたもの、あるいは権威への反抗というイメージそのものを、ちょっと見直してみる必要がありそうなことは確かだ。


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