ジョイス『私のカメラがとらえたあなた』イサベル・アジェンデ『パウラ、水泡なすもろき命』

ジョイス『私のカメラがとらえたあなた』
(芝まりこ訳、2002年7月、ブルース・インターアクションズ、1900円)

イサベル・アジェンデ『パウラ、水泡なすもろき命』
(菅啓次郎訳、2002年7月、国書刊行会、2400円)

ラテン・アメリカの女性たち

書評などといつつ自分のことばかり語っているようでちょっと恥ずかしいのだけど、またしても思い出話から。
ブラジル音楽が大好きな僕にとっては幸運というより他にないのだけれど、雑誌の編集者になって初めてインタビューの仕事をした相手がこのジョイスだった。そのとき初めてこの本の話を聞いたのだが、まさか翻訳は出ないだろうと思っていたから、ちょっと驚きだ。
初めてのインタビューということで、僕は緊張していた。気合いを入れていくつかの質問を用意していたのだが、インタビューというものはあまり思い入れが強すぎるとうまくいかない、と知ったのはもう少し後のこと。
中でも覚えている恥ずかしい質問は、彼女が作曲家として、歌手として、ギタリストとして、もっとも尊敬する人は誰か? と尋ねるものであった。ジョイス の答えはというと割と普通で、作曲家はアントニオ・カルロス・ジョビン、歌手はエリス・レジーナ、ギタリストは三人いて、トニーニョ・オルタとジョアン・ ジルベルト、ドリ・カイミ。こういう聞き手の思い入ればかりが強すぎる質問は後でうまく記事にならないのである。
そして加えて、僕はもう一つ訊いたのだった。ではフェミニストとしてもっとも尊敬するのは誰? それに彼女は「私の母」と答えた。
会社に帰った僕はテキトーな記事を一つでっちあげたが、もっとも感銘を受けたこの最後の答えについては何も書けなかった。思えば実に情けない話である。
さて、ジョイスのお母さん、どんなお母さんだったのかと思ってこの自伝を読めば、こんな具合だ。
「私の母は働き者の代表ともいうべき公務員で、持ち前のバイタリティで生をのぼりつめた人」「八十歳代の今でもビーチで過ごし、肌の色はブロンズ色のままである」「彼女にとっては、家はビーチに歩いていける距離でなければ話にならないのだ」

ジョイスはブラジルのミュージシャン、イサベル・アジェンデはチリ出身の作家であるけれども、ラテン・アメリカを代表する女性の表現者ということで、無 理やり一緒にとりあげた。もっとも、とりとめのない組み合わせのようではあるが、年齢も六歳しか違わないし、意外と共通点が多いようにも思える。二人と も、若い頃にフェミニズムの洗礼を受け、ある時代には彼女たち自身が「フェミニスト」と考えられた。ただ今はそこからちょっと距離をとっているように見え る。
ところで、フェミニストとして私は自分の母親を尊敬する、という言葉の意味は意外に深いんじゃないだろうか、と僕は思った。それは彼女の母親がフェミニ ストとして模範的な人生を送ったという意味ではないはずだ。たぶんそれは、自分が女性であることを肯定的にとらえることと関係があるのではないだろうか。 母を認めることができずに、どうやって自分を認めることができるだろう?
フェミニズムに限らず、「新しい思想」の弱点はいつだって、古いものを否定するあまり、自分の足下をも堀崩してしまうことだろう。

一方、『精霊たちの家』で知られる作家のノンフィクションはといえば、不治の病の床にあって意識のない娘パウラに、「きみが目を覚ましたとき、自分は いったい誰なのかと、途方にくれないですむように」、母イサベルが一族の歴史を語りきかせるという物語。ちなみに、有名なアジェンデ大統領(1970年世 界で初めて普通選挙によって選ばれたマルキシストの大統領。のちにクーデターによって殺される)は彼女の親戚だ。
ここでも母と娘、である。こちらは母のほうが娘に語りかけるのであるけれども、彼女自身の母親もまた重要な役割を果たすから、祖母、母、娘の三代にわた る物語であるとも言える。もちろんアジェンデのほうがジョイスよりもずっと意識的に自分とフェミニズムの関係、そして母親との関係についても書いている が、もちろんそれが物語の本筋というわけではない。物語の中心はあくまでも死にゆく娘の人生と母の人生、そしてチリと一族の「歴史」だ。
母は娘に「きみ」と語りかける。スペイン語の二人称 tu をこう置き換えた訳者の菅啓次郎に敬意を表するべきだろう。ふつう母親が娘に語りかける小説的な日本語は「お前」だろうか「あなた」だろうか。いずれにせ よ不自然で、普通は○○ちゃんとか○○さんとでも呼ぶのかもしれないが、この小説では、この親密で対等な「きみ」がなんともぴったりなのだ。
「目を覚ますとき、きみはどんな風になっているかしらね。おなじ女性にまた会えるんだろうか、それとも私たちは、二人の未知の女どうしとして、知りあいなおす必要があるのだろうか」
結局、パウラは「精霊」となってこの世を去ってしまうのであるが、小説の最初から意識のない彼女は、読者にとって最初から「精霊」のような存在である。 その「精霊」に母親が語って聞かせる物語のほうは、女として生きる苦労、喜び、痛み、矛盾だらけの人間らしさそのものである。そのあたりの対比が文学とし ては見事ということになるのだろうが、先のフェミニズムの話に戻れば、これはすごく示唆的な状況でもある。
伝統的な母と娘の関係とは、まさに娘を「霊化」しようとすることの失敗ではないか。つまり娘の性的な側面を否定し、どこまでも抽象的な「女」にすること。もちろん同時に、娘が大人になることは、母親が「精霊」ではないことの発見に他ならない。
「フェミニスト」たるアジェンデ家の母娘関係は恐らくその反対であったことであろう。母も娘もつとめてお互いに対等な「人間=女」あろうとしたはずだ。だからこそ、娘を「生のほうへ」呼び戻そうとして、母は物語るのだ。

あれれ、えらく理屈ぽくなってしまった。
ジョイスの音楽は好きだけど、自伝のほうは内容も翻訳もイマイチ。でも二冊に共通したある「臭い」があって、僕はそれがすごく気になったのでそれを無理に理屈にしたらこんな風になってしまった。
たぶん二人は言うだろう。そんな理屈はいいから、私の音楽を、私の物語を楽しみなさい。そのあたりがなんかリアルに想像できるところも、似ている。


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