G・ガルシア=マルケス『物語の作り方 ――ガルシア=マルケスのシナリオ教室』

G・ガルシア=マルケス『物語の作り方 ――ガルシア=マルケスのシナリオ教室』
(2002年2月、木村榮一訳、岩波書店、2700円)

物語が生まれる瞬間

小説の書き方、みたいな本はよくあるけれど、あまり読みたいと思ったことはない。一冊の本で「書き方」が分かるわけはないし、それが分かっているなら、 じゃあなぜ読むんだという話になる。たぶん「お金持ちになる方法」と言われるとなんとなく気になるのと同じ理由なんだろう。
だからこの本を読んでも「物語」が作れるわけじゃない。じゃあなぜ読むんだ? もちろん、もっと別の面白さがあるからである。
30分もののテレビドラマのシナリオを作る。それがこの本に登場する人々の課題である。メンバーが持ち寄ったストーリーをたたき台に、あれこれと話し合いながら、この枠におさまるストーリーを作っていく。
話し合いをリードするのが、作家のガルシア=マルケス。まずはこの場に居合わせたメンバーたちに嫉妬する。なんて楽しそうなんだろう!
この本の面白さのひとつはもちろん、希代のストーリーテラーであるガルシア=マルケス自身の言葉にある。彼が常に話し合いの中心にいることで、よくある 会社の会議みたいにダレることは絶対にない。独自の物語論や映画論はもちろん、絶妙のタイミングで話題を転換し、時に脱線する。率直な言葉は、書き言葉で は味わえない人間味がある。

さらにもう一つの面白さは、物語が生まれる瞬間をとらえた、この本の作りそのものからくる。すんなりと30分におさまるストーリーを求めて、繰り返され る試行錯誤、採用されないアイディア。一度忘れられた展開が復活し、脇役だったはずの人物が主人公になり、邪魔な人物には死んでもらう。あらゆる可能性の なかから一つを選ぶことは、物語を作る人間が神になったかのような錯覚さえ抱く悪しき快楽かもしれないが、同時に、物語は最初から一つの形でしかありえな かったような、そんな気もしてくる。パズルの答えは一つで、その回答は人間が作ったものではないんじゃないか、という気さえしてくる。
そのパズルの答えこそが、ガルシア=マルケスのいう「真実らしさ」なのであろう。どんな突飛な展開でもいい、自分が「信じる」ことのできる物語は、そう多くないのだ。
そんな「物語の生まれる瞬間」をとらえることができたのは、ここにたくさんの「天才じゃない」クリエイターたちが集合したからだろう。彼らの持ち寄った 「物語の種」はいずれも未完成で、でも可能性を隠している。それに彼らが気づかないからこそ、この瞬間が対話のなかで見事に表現できたのだろう。
人物のイメージ、あるシチュエーション、場所の雰囲気。メンバーたちがこだわる細部はさまざまだが、それにこだわるあまり、「語る」というある意味では 冷徹な作業がおざなりになっている。そこへ我らがガルシア=マルケスがやってきて不必要な部分を痛快なくらいにばっさりと片づける。彼は「面白ければなん でもいい」と思っているフシさえある。
やっぱガルシア=マルケスは語りのヒーローなのだ。

ところで話は変わるが、「物語ること」は何も映画やテレビ、小説などに限られない。僕たちはみな日頃から物語を作りながら、語りながら暮らしている。と きどき、びっくりするくらいそれの上手な人がいて、羨ましく思う。みんな物語に騙されるのが好きだから、そういう人は当然人気者だ。
そういえば、ガルシア=マルケスにまつわる「物語の種」を、僕も一つ持っている。
高校生の頃、ガルシア=マルケス本人じゃないかと思う人に会ったのだ。いや、「物語る」なら思い切って「会った」と書くべきかな。
そのとき僕は銀座を歩いていた。映画『予告された殺人の記録』のプロモーションで、ガルシア=マルケスが来日していた。僕は「あ、マルケスだ」と思った ものの、確信はなかった。あるいは単にちょっと顔が似ているラテン・アメリカ人だったかもしれない。小説のカバーにある小さな写真しか見たことがなかった から、自信がなかったのだ。
僕はその人物と連れの二人をこっそり追跡した。
さてここから何か面白い話が展開しそうな気がするのだが、事実はつまらないものだ。しばらく銀座の街をそのラテン・アメリカ人を尾行しながら歩いた僕は、結局怖じ気づいて追跡をやめてしまったのである。
別に、オチは「全然別人だった」でもいいのだ。どうやったらこれを面白く語れるのかな。ガルシア=マルケスにアドバイスをもらえたら、どんなにいいだろう。まずは話しかけたことにしないと物語が展開しないぞ、とでも言われるのかな。


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