モフセン・マフマルバフ『アフガニスタンの仏像は破壊されたのではない 恥辱のあまり崩れ落ちたのだ』

モフセン・マフマルバフ『アフガニスタンの仏像は破壊されたのではない 恥辱のあまり崩れ落ちたのだ』
(2001年11月、武井みゆき・渡部良子訳、現代企画室、1300円)

嘘のなかにある希望

事件の大きさに比例して、言葉は増える。
今年九月一一日にニューヨークで起きた事件についても、もちろん多くのことが語られてきた。知識人と呼ばれる人から、新聞の投稿欄、果てはインターネッ トの掲示板まで。あらゆる種類の人々が意見を述べた。もちろん意見を言った人が悪いのではない。人々はさまざまな意見を求めていたし、不安だった。誰かの 「説明」を待っていたのだ。
この言論の洪水のような状況の特徴は、意外にシンプルである。言葉の量や話題のホットさとは裏腹に、新しいものは何もないということだ。この新しい状況について語る言葉はすべて「古い言葉」なのだ。
考えてみれば当たり前だ。崩れ落ちる二つの超高層ビルの映像を見て、何かを知ることなど誰にもできない。不可解なものを見たとき、人はなんとか自分の 知っている知識でそれを解釈しようとする。テレビの前で呆然としていた僕たち「一般人」も、世間で尊敬される知識人も、その点ではまったく同じなのだ。
驚きから我にかえって話しだす言葉は、馴染みの古い言葉だ。護憲論者は今こそ憲法が大切だと言い、改憲論者はやっぱり改憲だと言い、文明の衝突論者はこ れこそ文明の衝突であると言い、メディア論が得意な者はなぜかメディア論を語りだし、経済の先行きを懸念していた者の懸念はさらに増す。何も変わらない。 変わったのはボリュームの大きさだけだ。それまでも知っていたことを語り、それまで考えていたことを、誰もがこの機会を利用して語り直した、というわけ だ。
そんな訳だから、この一連の事件に関連して出された出版物のなかで、ぜひ読まれるべきであると僕が考えるこの本が、実は事件よりも前に書かれたものであるというのは、ある意味で象徴的だ。
素晴らしいタイミングでこの本が書かれていた、というのは簡単である。
だが大事なのは、どちらが「偶然に」起きた出来事であるかを、見誤らないことだ。書かれる「必然性」があったからこそ、この本には意味がある。テロ事件 という「機会」を利用した文章とは本質的に違う。みんなが待っていた「誰かの説明」はもうすでにあったのだ。そこに偶然、あの事件が起きた。今は、そう考 えたほうがむしろ正しい、とさえ僕は思うのだ。
というのも、今のところニューヨークのテロ事件そのものはかなり「訳の分からない事件」であるにもかかわらず、それに対してアメリカ合衆国をはじめとす る各国の対応は、非常に分かりやすいものであった。では一体、僕たちは何に目を向けるべきか(何を知るべきか)といえば、それは、やはりアフガニスタンな のではあるまいか、と思うのである。
僕たち「一般人」がほとんど何も知らない国。この本の著者である、隣国イランの映画監督でさえもが「イメージのない国」と呼ぶアフガニスタン。あのとんでもない事件が指さしたのは、なぜかこの「イメージのない国」アフガニスタンだったのである(*注)
この本のタイトルにある「仏像」はタリバーンが爆破して有名になったあの仏像だ。マフマルバフは、仏像が飢餓と貧困で瀕死の状態にある国(アフガニスタ ン)を「指さして」みずから崩れたのに、「誰もそれを見なかった。愚か者は、あなたが月を指せば月でなくその指を見るのだ」と書く。
皮肉にもついに二つの超高層ビルが崩れ落ちるに至って、とんでもない形で「仏像の指の先にあるもの」は明らかになったのかもしれない。
アフガニスタンという国が今どんな状況にあるのか。想像を絶する飢餓と貧困、恒常化した内戦状態。それだけを綴った文章であるなら、類書はあるだろう。 この本で特筆されるべきなのは、「イメージのない国」アフガニスタンに、映像作家ならではのアプローチでなんとかイメージを与えようとする努力そのもの だ。
(そういう意味でも、この本はマフマルバフが撮ったという『カンダハール』という映画とセットになったものだろう。僕はまだこの映画を見ていない)
「イメージ」というのは、言い換えれば「嘘」という意味でもある。たとえば仏像が破壊された、というのが「事実」だとすれば、それを「恥辱のあまり崩れ落ちた」などと言うことは、イメージでしかなく、「嘘」であるとも言える。
だが、そのイメージでさえ、「嘘」でさえ存在しない国の悲惨さは耐え難いものであると、マフマルバフは言いたいのではないか。ステレオタイプで語られる ことさえできない、忘れられた、見えない国。そしてその悲惨さを救えるのは、イメージそのものでしかないという認識。
もちろん、映画に何ができるのだ、といえばその通りである。マフマルバフはまさにその点について繰り返し絶望している。ある意味でこの本のテーマは絶望の表明なのだ。

「街道を眺める。これはこれ自身で、一つの映画だと思う。運転手は、この当たりのいくつかの家ではひそかに女子学校が作られ、何人かの少たちが家で勉強し ていると言う。私は思う。ここにもまた一つの映画の題材がある。私はヘラートに辿り着く。女性がブルカの下からマニキュアをしてもらっているのを見る。私 は思う。ここにもまた別の映画の題材がある。危険なアフガニスタンまで人の役に立ちたくてやってきた一九歳のイギリスの少女に会う。ここにもまた別の映画 の題材がある。(中略)いまにも死にそうな人びとが、通りを覆いつくしているのを見た。もはや言うことはできなかった。ここにもなた別の映画の題材があ る、と。映画を辞め、ほかの仕事を探したいと思った」

だが、「嘘」であるイメージを取り戻さないことには、何かに希望を持つことさえできない。マフマルバフが映画を撮りつづけ、文章を書く理由は、まさにこの一点にあると思われる。
彼の映画は二作しか見ていないが、フィクションとノンフィクションの境界を意識的に取り扱っている作家だという印象をもっている。言い換えれば、「事 実」とされるものと「イメージ」のあいだの曖昧性である。その間隙を名人芸によって描いて、最終的には「嘘」としての映画を、イメージそのものとして観客 にぶつける、その手腕は見事だ。
王政打倒を目指して地下活動中、警官の銃を奪おうとして失敗した若き日のエピソードを映画化した『パンと植木鉢』はまさにそんな映画だった。当事者同士の認識の食い違い。そして、過去の「再現」という作業に入り込む現在という時間。その複雑なパズルを解き明かすラストシーンの美しさは、とても言葉では言い表せないものだった。
唐突に現れたパンと植木鉢という「イメージ」。それはマフマルバフの「嘘」であるとともに、どうしてもそうでなければならない、世界への希望であった。若い男女が差し出すのは、銃やナイフではなく、パンと植木鉢でなければならないと。
苦渋に満ちたこの本は、まさにその希望がいかに小さなものかを、延々と書き連ねた本であると言えよう。ここではマフマルバフは純然たるノンフィクション を目指しているように見える。悲惨を表現するのに、数字を羅列することしかできない、という映画監督の嘆き。
だが『カンダハール』という映画が撮られたこと自体、それがどんなに小さなものであっても、希望が決してなくなってはいないことを示しているのではないか。世界に対して映像を、イメージを差し出すという行為そのものが示す何かを信じたい。
この小さな本とともにマフマルバフの映画がより多くの人の目に触れることを願ってやまない。

(注) ある友人から次のような批判をもらった。「テロ事件とアフガ ニスタンの問題は本当に関係があるのか。アメリカがアフガンを指差したときに世界はアメリカの指を見てただけなのではないか」。そう言われて読み返すと確 かに筆がすべっていると感じる。ここで語りたいのはあくまでもアフガニスタンの問題であり、テロ事件のことではない。テロの原因や解決をアフガニスタンの 国内問題に関連づけるのは間違いである可能性が高いと僕も思う。


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