アヴィグドル・ダガン『宮廷の道化師たち』

アヴィグドル・ダガン『宮廷の道化師たち』
(2001年9月、千野栄一・姫野悦子訳、集英社、1800円)

悪すぎた時間

読書にはタイミングというものがある。
たとえば恋愛小説を読むとき、読者自身がどんな恋愛状況にあるか。それによって評価が変わってしまうのでは困る、と思う人も多いかもしれない。
でも僕はそれを不可避と考えるし、仮に個人的な感情を離れた客観的評価なるものがあったとしても、そんなものには興味がない。現実世界で嫉妬に苦しんで いる読者が、ひとまずそれをおいて小説のなかに描かれた嫉妬を「平気で」読むなんて、ナンセンスだ。フィクションの独立性というのは、そういう意味ではな いと思う。現実と区別がつかないくらいのめりこんでこそ、フィクションの醍醐味が味わえるのではないか。
したがって読書のタイミングは重要である。次に読む本は何にするか。そこからすでに読書という行為は始まっている。どんな本を選択するか、も含めての読書なのである。
そんな訳で以下は、読書のタイミングを間違えた、という報告にすぎず、とりあげる本の客観的な評価からは、ほど遠いものであることをまず述べておきたい。

そもそもなぜこんな本を買ってしまったのか。
その理由は容易に想像できる。チェコ語のユダヤ系作家という点に興味をもった。装幀が気に入った。長すぎず、ちょうど読みごろのサイズと思った。などなど。
しばらく積んでおいたのを数日前にふと読みはじめたのだが、すぐに思った。
なぜ僕はこんな本を読んでいるんだろう?
強制収容所の最高司令官の道化師として生き延びた男たちの運命。イェルサレムに辿りついた彼らはやがて、「人間は神のためにつくられた道化師にすぎないのか」という問いに行き着く。
『宮廷の道化師たち』の粗筋はこんなところである。シンプルで無駄のない文章。計算されつくした語り。拍手。
確かに、途中で飽きるような要素のない、よくできた小説である。その証拠に、最後まであっという間に読んでしまった。しかし、面白いとか面白くないといかいう以前に、自分にとって今どうでもいいものを読んでいるな、という感覚は致命的だ。

今イスラエルで起きつつある出来事が頭の隅にあったのも事実だ。被迫害者としてのユダヤと、現在の「ユダヤ国家」のあいだにある断絶は何なのか。その問いにもかすかに触れるはずのこの小説だが、やはりどこか違う方向を見ている。
主人公の一人がアラブ人のテロによって負傷する場面は、ただ過去への入り口としてしか描かれない。
小説としては、それでいいのだ。そう思いながらも、どこか落ち着かないのは、やっぱり読むタイミングが悪かったとしか、言いようがない。
そして、この小説の重いテーマである、この世界が作られた「目的」。ユダヤ神学的な問いに、リアリティを感じられないのは僕だけじゃないだろう。唯一絶 対の神というコンセプトを共有しない人間にとって、神と強制収容所の最高司令官を重ねることは、よくできた冗談ではあっても、この身を震撼とさせる恐ろし い思いつきなどではない。
そしてこの本の主人公が辿り着いた解答をここでは明かさないけれども、問い自体ぴんとこないものの答えに、感動するわけがない。
チェコ語で書かれてはいるが、内容は明らかに現代イスラエル文学。僕にはそうとしか感じられなかったのだが、どうなんだろう。チャペック兄弟やカフカ(こちらはドイツ語だが)なんかと比べることに、どれだけ意味があるのか。
でも今はそれを考えるには、本当にタイミングが悪すぎる。


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