川口啓明・菊地昌子『遺伝子組換え食品』他

「論争的な新書」を読む

何年か前から新しい新書シリーズの創刊が相次ぎ、「ブーム」なんて言われた。要するに単行本が売れなくなり、場所をとらず単価の安い新書くらいしか売れなくなったというだけのことで、実際にみんなが新書に注目しているかどうかは、怪しい。
確かに新書の棚はヴァラエティー豊かに楽しくなった。その代わり、新刊が出されてすぐに買わないと、あっというまにどこかへ消えてしまう、回転も早くなった。
新書に求められるものがよりタイムリーな話題になったのも、同じ変化の一側面だろう。かつて新書といえばサラリーマンの教養本であり、ある種のステータ スがあった。今はある話題で一冊新書を読んでも、安心はできない。数が多くなって全体の品質が落ちたというだけではない、新書はより雑誌的、論争的なメ ディアに変わろうとしているのだと思う。
相変わらず、どこの新書も地味で「信頼のおけそうな」装幀ではあるが、中身は確実に変わりつつある。時代の空気の変化もあるだろう。古典は岩波文庫、現代的な話題は岩波新書さえ読んでいればまあ大丈夫なんて言っていられたのは遠い昔の話だ。
そんな訳で、最近の新書を何冊かまとめて紹介しようと思う。おもに僕が「一言言いたい」本だ。納得できない本に高いお金を払うのは嫌なものだが、新書く らいの値段なら、たまにはいいのではないかと思う。そんな訳で長々と書いたが、僕の「新書論」は「気に入らない新書を、批判的に読むべし」である。なんと いっても経験上「これは素晴らしい」と思える新書というのは、本当に数少ないのである。

さて一冊目は『遺伝子組換え食品』。最近ちょっと気になった話題なので買ったが、もちろんこれは読まなくても「遺伝子組換え食品は安全だ」という主張の本であることが分かるので、最初から対決姿勢で読んだ(謙虚さまるでなし)。
しかし敵もさるもの、遺伝子組換えの是非という「本題」に入る前に、なんと本のほとんど半分を割いて、遺伝子とは何か? 動物は食べ物をどうやって吸収するか、という教科書的な説明がなされるのである。
これには閉口した。著者の言うように、世の中には「遺伝子」という言葉だけで「危険な食べ物」と思うような人々がいるらしいが、しかしそういう人がこん な本を読むだろうか? 後半で「安全性」を強調するために、催眠効果を狙っていると勘ぐられても仕方ない作りである。
そんな訳でこの前半は読み飛ばし、肝心の後半を読む。著者の主張はいくつかあるのだが、大雑把にまとめるとこういうことになるだろう。

一、遺伝子組換え技術は人類が積み重ねてきた品種改良と基本的に同じであり、使い方を誤らなければ危険なものではない。
一、遺伝子組換え技術によって農産物の安全性をめぐる検査はより厳しくなっている。非遺伝子組換え作物のなかにも危険なものがあることを認識すべきだ。
一、「組換え」の表示はナンセンスである。危険なものならそもそも売るべきではない。「組換え作物不使用」の食品さえ食べていればいい、という消費者の選択はむしろ問題を悪化させる可能性がある。

このあたりの記述はなかなか説得的である。私も表示の問題についてはほとんど賛成だし、現在流通している遺伝子組換え作物それ自体が危険だとは、あまり 思っていない。遺伝子組換え技術について論じるとき、「安全か安全でないか」は水かけ論になることが多いので、むしろこういう主張をある程度理解しておい たほうがいいのではないかと思う。
だが、だからといって組換え技術万歳とはいかない。
遺伝子の説明やらに費やされたこの本の半分に書かれるべきことが、もっとあるだろうと思うからだ。
まずひとつはグローバル化時代における農産物貿易のあり方と肉食の問題である。大豆やトウモロコシの増産は何を狙ったものかといえば、南の国の飢餓を救 うためでは決してない。なんせこれらの作物のほとんどは牛や豚の餌になるのだから。「作物の増産は農民の切実な願い」などという話ではないのだ。経済の問 題として考える視点が必要だ。アメリカが進めるグローバル化と遺伝子組換え作物の問題は切っても切り離せないのだ。
もう一つは科学の倫理ともいうべき問題だ。この本でもちょっとだけ触れているが、この技術は植物だけでなく動物や人間にも応用可能だ。一体どこで技術の 使用に関してストップをかければいいのか。そのことをほとんど考えず、「感覚で」今のところいいんじゃないか、というのが多分この二人の立場のように感じ た。
今ある遺伝子組換え作物の「安全性」「素晴らしい特性(時には環境にやさしい!)」を説明するだけでこの技術は大丈夫、と説得する。なんとなく嫌な記憶 が蘇ってこないだろうか。「日本の原発の安全性」を強調して、原発の正当性が強調されていたのは、まだつい最近のことだ。今や、原発の問題は地球全体の環 境やエネルギー利用という展望なくして語れないのはもはや常識だろう。あるひとつの原発を見て、これは安全、これは安全でない、と判断するような問題では ないのは明らかなはずだ。

既に疲れはじめているが、次の新書(二冊)へ行こう(今日は珍しくとことん攻撃的なのだ)。
話題はうってかわって「人権」である。昨年、『人権を疑え!』というオムニバスの新書が出て、さらに最近『反「人権」宣言』というのが出た。
確かに「人権」という言葉には水戸黄門の印籠じみた力があり、一体これは何なのか? と問うのは実に結構なことである、ということで一気に両方読んでみたわけである。
さて、偶然というか、この二冊の本もやはり二つの部分に分けて読まれるべきものと感じた。
この二冊の場合、二つの部分とは「人権を疑ってみよう」と「その代わりになるものは何か?」である。
「人権」という言葉がいかに便利で、いかに多く使われているかを考えてみれば、最初の問いの有効性は明らかなのではないだろうか。二冊の本の著者たちが指 摘するように、子供や若者が「それって人権無視じゃん」などと喜んで使うのは、この概念をほとんどの人が「無条件に」受け入れてしまっていることを証明し ている。
人権思想の怪しい来歴を語り、その弊害を指摘する部分については、二冊ともよく出来ている。だが、問題はその先にある。西洋近代的な個人主義の広がりとともに神格化された「人権」を否定するならば、社会の基準は何であるべきなのか?
その点になると、著者たちの言葉は途端に幼稚になる。複数の著者が書いているわけだから一概には言えないが、ざっと読んだ印象はそんな感じである。そこまで踏み込まなければ、それはそれで印象がよいのに、とさえ思われた。
人格、家族、法律、国家、さまざまな言葉が飛び出すが、決して説得力があるとはいえない。「人権」の胡散臭ささえ指摘すればあとは何でも言える、という 感じさえ受ける。全体に懐古主義なのはよいとしても、一体何をどこまで戻そうとしているのか、実に曖昧で感覚的な言葉が多いのだ。
『人権を疑え!』の編者、宮崎哲弥氏が喝破しているように、「人権」は国家権力など「公」に対して用いられるべき言葉である。「人権」という言葉がいかに 誤用されていようと、国家が存在する以上は必ず「人権抑圧」は存在するのであり、簡単に「疑う」から「否定」に向かうのはおかしいと感じる。もちろん『人 権を疑え』の著者の何人かは「必要悪としての人権」というほどのスタンスに立っているから、これも一概には言えないのだが。そういう意味では、この二冊の うちどちらかを読むなら、『人権を疑え!』を勧める。どこまでが「疑う」で、どこからが著者のイデオロギーの表明か、それがある程度見えるように作られて いるからだ。
それにしても僕にとっては、「国家」もまた「人権」と同じくらいに疑うべき神話であるのだが、これら多くの筆者たちの、国家をあまりに自明のものとする 姿勢には今更ながら驚いた。きっと「国家」に対してよほどいいイメージを持っているのだろう、と思ってしまった。


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