加島祥造『いまを生きる ――六十歳からの自己発見』

加島祥造『いまを生きる ――六十歳からの自己発見』
(2001年4月、岩波書店、1700円)

爺礼賛

僕の「お爺ちゃん」は二人とも割合に早く亡くなってしまった。
母方の祖父については、記憶がない。音楽の好きな人だったようだ。
父方の祖父については、ぼんやりと記憶がある。訪ねていくと、いつも時刻表を調べて、帰りの列車の時間を心配してくれた。僕は時刻表が好きだ。時間を忘れて「読みふけって」いると、あまり話すことのなかった祖父のことをときどき思い出す。
そんなわけで、爺さんというものへの、憧れがある。
僕にとっての憧れの爺さん像、それが加島祥造なのだ。

加島祥造を知らない人のためにちょっと紹介しておこう。彼はフォークナーの名訳で知られるアメリカ文学者、事典の使い方などの啓蒙的な文章を書いた知識人、あまり有名とはいえない詩人、ほとんど世間では知られていない画家である。
最近の著作では老子の口語訳『タオ――ヒア・ナウ』(パルコ出版、筑摩書房の『タオ――老子』もほぼ同じ内容)がとにかく素晴らしい。英語を迂回して韻文的に訳された老子は、わかりやすくて、美しくて、心に響く。一家に一冊おいてほしい名作である。
この本であるが、著者が長年知人に配信しつづけた「晩晴館通信」に書かれた随筆を集めたものである。配信といってもメルマガではない。今もときどき郵便で知人に届けられるという「通信」には、著者がその時々に感じた思いが自由につづられている。
六十三歳から、十五年間。僕にとっては想像しがたい年齢である。
でも、六十、七十を超えたって、瑞々しい、ときには激しく、ときには恥ずかしい心の動きはある。このごく当たり前のことに、猛烈に感動してしまった。
このちょっと相田みつをみたいな表紙(そしてこのタイトル…)の本を電車のなかで読みながら、涙を流していた僕はちょっと異様な感じだったにちがいない。

さて、いよいよこの本の素晴らしさを言葉にしようとして、すっかり手が止まってしまった。ここに書かれたエピソードや言葉を、ちょちょいと紹介すればい いのだろうか? なんだかちょっと違う気がする。僕のような若造が、「こんなこと言ってます、素晴らしいですねえ」なんて言えるような種類のものではない のだ。
この年齢のちがい、経験のちがいに、ちょっと目眩がする。
同時にとてつもなく大きな共感をおぼえる。
そうだ、このエピソードならこの文脈に合うかもしれない。
加島祥造が大学を退官するとき、同じときに卒業する学生たちに向かって挨拶をしたのだそうだ。こんなとき僕の記憶では、学校の先生というものは「私も一緒に卒業します、頑張りましょう」なんて訳の分からないことを言ったものだ。
加島先生はかわりにこう言う。
「いま社会に入ってゆくあなたたちを、そこから出てゆこうとする私が、どのように祝福すべきだろうか。……苛烈な物質追求の社会に入ってゆく。そこは能率本位で、計算ずくの競争社会です」
そう言いながら、ではお互いに共通する何かがあるとすれば何だろう? と問う。そこで出てくるのがこの書のタイトルでもある「いまを生きる」である。こ う書くとなんだかしょぼいが、でも「いまを生きる」のひとつしか分かちあえないほど、大学を卒業していく若者と、これから退職して隠居する先生は遠いの だ。遠いけれど、その一点でつながっている。
子供が爺さんに感じる愛情、爺さんが子供に感じる愛情というのは、そういうものかもしれない。なんて遠い世界を生きているんだ、と思いながら、どこかでつながっている。でも、そのどこか、こそ一番大切なものなのではないか。
だからこそ、子供は爺さんが好きなのだ。時刻表の難解な世界は分からないけど、なぜかその一点で僕のことを心配してくれた「お爺ちゃん」。
かつて加島先生にお会いしたとき、彼がこんなことを言っていたのを思い出す。
「今の四、五十代の人間はまったく駄目だ。これから君みたいな若い者が世の中を変えていく。今の若い者にはその力を感じる」
もちろん僕には四、五十代の人間が駄目かなんて分からないし、自分も含めて今の若い者がどれほどのものか、とも思う。でも、なんだか根拠のないそのメッセージのおかげで、僕はすごく楽になったのを覚えている。
爺さんでなければ言えない言葉はたくさんある。そんな言葉がたくさんつまった本、ぜひ騙されたと思って読んでほしい。不意の涙にも注意しつつ。


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