ベルナルド・リエター『マネー崩壊 』

ベルナルド・リエター『マネー崩壊 ――新しいコミュニティ通貨の誕生』
(2000年9月、小林一紀他訳、日本経済評論社、2300円)

SF的思考で「お金」を考える

昨年『エンデの遺言――根源からお金を問うこと』(NHK出版)という本を読んだ。それ以来、「地域通貨」あるいは「オルタナティヴ通貨」というものの存在が気になっている。
われわれの身のまわりに、当たり前のように存在しているお金。それをもう一度考え直してみること、それは簡単なようで難しい。まるで空気の存在を疑ってみることのように。
『エンデの遺言』は実に単純な問いから出発する。それは、お金にはなぜ利子がつくのだろうか、という問いだ。おそらく交換の利便性のために作られたお金 は、同時に価値の保存という重要な役割を持っている。食べ物をはじめ、あらゆるモノは古くなって価値を減じていくが、お金はそうではない。この特権的な性 質から、人々はみなお金を欲しがる。お金の希少性が「利子」を生むようになったのが先か、お金が単なる「手段」であることを超え「価値そのもの」になった のが先か、私は知らない。ともかく、歴史の中で人間の手で「作られた」性質をもつお金の存在を私たちは受け入れ、それとともに暮らしているわけだ。
利子の存在は、単にモノであるはずのお金に神秘的な性格を与えることになった。モノを必要以上に持つことは大きなコストとリスクを伴うが、お金の場合は そうではない。持っていれば持っているほど、その力は大きく、限りがないのだ。利子の存在は、お金をめぐる人間の競争状態のはじまりといっていい。
利子のないお金は存在しうるのか? そうだとすると、そのお金を使う人々の暮らしはどんな風に変わるだろうか? これが『エンデの遺言』の主題であっ た。過去、実際に導入された「時とともに減価する」通貨、あるいは現在も世界各国で現在使われている地域通貨を考えながら、新しい時代の通貨を予感させ る、そんな本だった。

この話題はいまだ遠い世界にあると感じる。国内でも現実的な取り組みが始まっているというにもかかわらず、私たちはお金のことを真剣に考えるのにいまだ SF的な思考を迫られる。「生活感覚の延長で」などと言ってはいられないのだ。それほど根深く、お金のあり方は人間にとって当たり前になっているというこ とだ。
『エンデの遺言』がなぜM・エンデから始まらなければならなかったのかも、よく分かる。「すでに当たり前になったもの」を見直すことほど、人間の想像力が不可欠なのだ。
そういう意味では、今回紹介する『マネー崩壊』もまたSF的である(やっと登場した……)。
SFとしてとらえたとき、『エンデの遺言』はやや不満の残る内容であった。エンデだからファンタジーと言うつもりもないのだが。「予感」に満ちてはいて も、どこか説得力に欠ける。その説得力こそ、SFのサイエンスでありフィクションである所以であろう。あるいは『エンデの遺言』は、現時点におけるドキュ メンタリーとして優れていたともいえる(実際、この本はNHKのドキュメンタリーを元にしている)。それは変化の兆しをうつしだしはするが、未来へ向けて の提案とまではいかなかった。
端的にいえば、疑問はこうである。新しい地域通貨が国家通貨の存在に影響を与えるような力をもちはじめたときに、一体何が起きるのか? ある通貨を発行 するのが国家でなくなったとして、「誰か」がその発行の権限を持っているとしたら、最終的にそれは同じことなのではないか? その「誰か」の良心に期待す るなどという馬鹿げた前提に立って、地域通貨を全面的に応援することなどできない。

さて、長々と前置きをしたのは、『マネー崩壊』がある意味で胡散臭い感じのする本だからでもある。このあたりはこの書物の本質にも関わるし、同時に日本語版の提示の仕方にもやや問題があるのだと思う。固い本なのか柔らかい本なのか、どっちつかず。
でも騙されたと思って、読んでみてほしい。これはSFとして読んだとき、実に面白いのだ。記述のスタイルからして、かなりSF。前述のような、現在広ま りつつある地域通貨が「国家通貨を脅かすほどの」影響力を持ち始めたとき、世界はどうなっていくのか? という問いに、いくつかのシナリオを提示している ところなどは、SFそのものである。結果的に、いくつかの種類の通貨が同時に共存していくのが望ましいという著者の結論が引き出されるのであるが、その予 測が楽観的であるかどうかはともかく、こうした可能性の提示から、いくつかの問題点が浮き彫りになるのは見事というほかない。
欧州でユーロの誕生に深く関わったという著者だけあって、グローバル経済の現状に対する目配りも行き届いている。だからなぜ今お金を問い直すかという、出発点もはっきりしている。
などなど、この本の美点はいくつもあるのだが、それでもなおこれをSFとして読むことを勧める(しつこいか?)。まずは楽しんでほしいのだ。当たり前を 疑うこと、現在とは違う前提のうえに成り立つ未来を想像すること、そのスリリングな行為は、かつて科学技術が世界を変えるだろうと信じられた頃に読んだ SFの面白さに通じる。
科学だって想像力から出発したのだ。経済もそうであって悪いはずがないのである。


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